鉾田を日本一のメロンの里にしたい。そのために日々奮闘する浅田さんには、もう一つ、日頃から願っていることがありました。それはメロン作りの仕事をもっと楽なものにしたいということです。手間がかかり、時期によってはどこへも出かけられないほど目の離せないメロン作りを、少しでも改善したい。人が楽にならなければ、いずれ作り手が減ってしまうと危惧していました。その長年の思いから、まずは能率の良い選果場が必要だと考えていました。
メロンは切ってみて、食べてみないと当たりはずれがわかりません。JA茨城旭村に品出しをされる農家さんたちは、農協の指導により適期収穫を守っていたので、目視検査の時代から糖度的には優れていました。東京市場の評価も高く、どの産地よりも外れの少ないメロンという定評がありましたが、この特色を更に強固なものにしたい。そのためには、より正確に見極めができる検査技術も備えた選果場にしたい。
その思いがやっと実を結んだのが平成15年(2003)。JA茨城旭村の青果物管理センターの完成です。センターでは糖度や熟度といった作物内部の品質検査が行える光センサーと、1玉ごとに誰がどのように作ったかという栽培情報が分かるトレーサビリティシステムを導入。それらの検査データが保存された個体管理ラベルを貼付し、箱詰めから封函まですべて自動で行われます。
これによりJA茨城旭村から出荷されるメロンには当たりはずれがなく、1つ残らずすべて間違いなくおいしいメロンを提供できるようになったのです。
しかしこの大規模なプロジェクト、建設に必要な費用の概算は当初50億円と予想され、反対意見もありました。光センサーを入れた管理センターを作ろうという構想を立ててから実現するまで、5年ほどの歳月を要したといいます。その実行牽引役もまた、浅田さんが担っていました。浅田さんがJAの職員を退職する以前、設計の段階までは中心人物として関与していたのです。
センターの建設費用や減価償却プランを見直し、いよいよ実現への見通しが立つと、まず行ったのはメロン部会組織(27支部)への説明です。座談会を開き、施設の詳細を伝えます。するとどの支部に行っても同じ質問をされました。糖度は何度で切るんだ? 14度か、15度か? 甘くないメロンはどうするんだ?と。
「うちのメロンが機械にはじかれたらどうしてくれると、そのやりとりは必ずあったね。その時言ったのが、今出しているメロン、甘くないと思いながら出しているの?ってこと。消費者には確実に甘くておいしいものだけ、一定以上の品質のメロンだけを届けるんだ。それは今後生き残っていくための絶対条件で、だからここは甘くないものを弾くための選果場なんだと、一人一人に説明した。農家の人は結局自信がないわけじゃないので、最終的には納得してくれたんだ」
他にもメロンの搬入方法は箱か、コンテナか、パレットか。うちにはフォークリフトがないから対応できない、年寄りだからコンテナ6段なんて重ねられるわけがない等々、大小さまざまな問題が突きつけられましたが、その度に話し合い、共に落とし所を見つけながら計画を進めていきました。
施設に関することでは、導入するセンサーの選定が最重要案件でした。今後の命運がかかっているのですから、確実に決めなければなりません。まずは競合するメーカーを3社に絞り、センサーの試験を行うことにしました。
センサーは光で計測するものや、音で計測するタイプもありました。どれが一番メロンの計測に相応しいかを決めるために、まずはメロンの糖度を測る基準を作る必要があります。そこで浅田さんは1日に200個以上のメロンを食べて、機械が計測する数値と人間が食べて感じる官能検査の結果の擦り合わせを行いました。
「当時はリンゴや桃なんかは既に光センサーを使っていたけど、メロンは初めてだったからね。どの機械がいいか、その答えを出すために毎日200個を1週間くらい食べ続けた。口がもうピリピリして、酢の物なんか食ったらたいへんだったよ」
多くの人を説得し、さまざまな問題をクリアして完成したJA茨城旭村の青果物管理センター。そのおかげでJA茨城旭村から出荷されるメロンは1つ残らずすべて、どれをとっても甘くておいしい当たりだけ。ハズレのないメロンだけが販売されるようになりました。消費者の皆さんの期待を裏切らない品質を提供し続ける。その事実の積み重ねが、鉾田のメロンを国内トップの地位へと導いてきたのです。
プリンスメロンが日本のメロン史に登場してから60年余りが経ちました。この間、いくつもの品種が生み出され、栽培方法も変わりました。農業経営にも時代に即した変化がみられ、生産者の数も一時は増える一方でしたが、近年は減少傾向に転じています。
しかしこれまで終始一貫、揺るがぬことがありました。それは、消費者の皆様においしいメロンだけを提供するという矜持です。そのために栽培する技術、収穫する技術、販売する技術、いずれも最高峰を目指し続けてこられました。農家の皆さんの努力はもちろんのことですが、そこには浅田さんが抱き続けた営農指導員としての信念が果たした役割も大きかったはずです。
浅田さんに営農指導員になって一番苦労したことを尋ねると、少し考えて「俺には苦労なんてなかったね」と一言。
楽しかったことはと尋ねると、「一時はあちこちにあった産地が減って、茨城旭と対抗する産地が3カ所残ったんだ。で、それに勝つこと。一番になることだよ。だけど一番になるのに結構何年もかかったなぁ…」と感慨深げ。
おしまいに、現在メロンに携わっている方達に伝えたいことはありますかとお聞きすると、このように即答されました。
「無理をしないでメロンを作ること。これを目標に答えを出してほしい。とにかく品質を落とさないようにしながら、農家の人たちがたいへんな思いをしなくてすむようなメロン作りをね。今まで何十年も同じような作り方をしてきたけれど、これから見たこともないような画期的な栽培方法を見つけていってもらいたい。そういうことを心得ながら、頼みますね。応援しています」
最初にプリンスメロンを試作したときに、「これはいける」と直感した浅田さん。早くもその時点で「他の産地には負けたくない、やるんだったらトップになろう」と決めました。
そのためには誰に何と言われようと、品質重視を最優先に徹底したこと。どんな局面でも信念を曲げなかったこと。不眠不休の過酷な日々にも耐えたこと。辛抱強く努力を惜しまなかったこと。たとえその時は不利益に思えることでも、未来を見据えて一流の産地として成長するために周りの人を納得させ、巻き込むほどの情熱を燃やし続けたこと。
鉾田にメロン栽培の機会が訪れた時、そこに負けん気の塊のような営農指導員の存在があったことを、幸運と言わずしてなんと言えば良いのでしょう。
歴史的な酷暑を記録した2023年。初めて取材に伺った日もじっとりと暑い日でしたが、91歳の浅田さんはハウスの中で植物の世話をされていました。
取材を始めると、頭に浮かぶ昔日の光景はくっきりとした輪郭をもっているようで、記憶の確かさに驚かされました。無駄のない語り口は時に少しのユーモアが混じり、質問に答えるまでの間合いに、ネガティブなことは口にすまいという意思が感じられます。年齢を重ねても尚一層の自制心で、非難めいた言葉や自慢話は一切口にしない浅田さんですが、ぽつりともらした例え話に、わずかに自負が滲みました。
「帆掛船が帆だけでなく、大きな発動機エンジンをつけて前へ進むように、エンジンの役目を農協が果たしたという。そういうことになるかもしれないね」
図らずもこの言葉は、かつて浅田さんが憧れた鯉淵学園の園長が書いた論文に酷似しています。『君たちは急な流れに竿をさして船の舵をとる、その竿の役目である。農村のさまざまな厳しさを乗り越えていくために、船頭する役目を果たすのだ』という、あの一節です。
農業を学ぼうと思い立った青年がずっと抱き続けてきた理想の姿を、営農指導員という職業によって実現することができました。そうして憧れていた先生の言葉は、いつしか浅田さん自身の言葉になったのです。
イメージしていた小舟はやがて優美な帆掛船へと姿を変え、竿はエンジンに進化を遂げているところにも革新の精神が発揮されています。これこそ浅田さんの本質であり、鉾田を日本一のメロンの産地へと導く原動力となったのではないでしょうか。
ゆるやかな丘の上に建つご自宅には、四季折々の花を咲かせる木、実のなる木、さまざまな樹木が植えられています。多くはこの家を建てたときに友人知人から記念に贈られたもので、ありがたい人とのご縁、この地に根を張って生きてきた日々が思い出されます。
ひときわ背の高いのはトドマツの木です。浅田さんは庭の入り口の最も目につくところに、北海道から持ち帰ったこの木の苗を植えました。電信柱をゆうに超え、トドマツは今も空に向かって伸び続けています。
【了】